領域概要 Research Outline

研究領域名:複雑な社会を維持する知性の源流を探る「認知進化生態学」の創成

領域略称名:認知進化生態学

領域代表:高橋宏司(京都大学・フィールド科学教育研究センター)

本領域の目的

近年、ヒト・類人猿・社会性哺乳類といった高等脊椎動物が持つと考えられてきた「賢さ(複雑な社会・高度な認知能力・発達した脳機能)」が、魚類・頭足類・甲殻類などの水圏動物でも相次いで発見されてきています。このことから、私たちが持つ従来の動物全般の「賢さ」の常識を根本的に見直す必要がでてきたと言えます。本領域研究では、このような動物全般の「賢さ」を把握するために、現在まで個々に研究されてきた行動・進化生態学、比較認知科学、脳神経科学を融合した世界でも例のない「認知進化生態学」を創成します。新興領域研究では、分類群内外での比較研究が容易な水圏動物を用いて、動物全般の「賢さ」の検証、その進化要因と維持機構の解明を目指します。そして、ヒトの賢さとその起源についても相対的かつ客観的に見直すことを目標としています。

本領域の内容

 本領域では、3つの既存分野(行動・進化生態学、比較認知科学、脳神経科学)を融合させて「認知進化生態学」を創成し、以下に挙げる5つの班の研究を進めることで、ヒトも含めた動物全般の「賢さ」に対する理解に大きな変革や転換をもたらします。

①A01 魚類生態班(研究代表者:安房田智司) 「魚類における複雑な社会の進化・維持機構と認知能力との関連性の解明」

協同繁殖や共生などの高度で複雑な動物社会の進化・維持機構の解明は、行動・進化生態研究の中心的課題です。魚類は多様性に富む社会を有しており、高い認知能力や新たな個体間情報伝達機構の存在が明らかになるなど、高次の社会的認知能力が複雑な社会関係の成立に大きく関与することが私たちの研究から分かってきています。魚類生態班では、生態研究を基盤に、多角的な手法からそれらの維持機構と進化的な意義を解明していきます。第一に、タンガニイカ湖に生息するカワスズメ科魚類だけで知られる協同繁殖について、系統進化に焦点を当て、社会性の多様化の把握を目指します。第二に、相利共生における種間・魚類の親子間での音声シグナル交換を解明します。これは、哺乳類や鳥類の音声や言語の進化にもつながる大きな発見になると考えています。第三に、魚類の個体ごとの巧みな共同狩り戦術に関係した認知能力や社会関係の実態解明を目指します。最後に、これらに加えて、魚類の複雑な社会性と認知能力を支える中枢神経基盤の解明にも挑みます。生態・認知・脳研究を統合展開する魚類生態班研究は、新たな「認知進化生態学」分野を学界に確立することを目標とします。

②A02 頭足類班(研究代表者:佐藤成祥) 「生態・認知・脳研究から迫る頭足類の社会認知能力の起源」

ヒトをはじめとする、霊長類や鯨類等の高等脊椎動物は、群れ内の複雑な社会関係を背景に認知機能が発達し、高度な知性を獲得したと考えられています(社会的知性仮説)。しかし近年、群れを形成しない魚類において鏡像自己認知があることが示されました。このことは、これまで群れ内の社会関係を中心になされていた霊長類・哺乳類研究における議論の再考を促す結果だと言えます。頭足類は脊椎動物とは独立に高い認知能力を進化させていますが、頭足類においても認知能力と社会性には直接的な関係がないようです。頭足類班では、単独で生活するにも関わらず高度に発達した認知能力を示す様々な頭足類を対象に、摂餌や繁殖、対捕食行動などの生存に直接関係するイベントにおける縄張りや互恵行動といった個体間相互作用によって、頭足類の社会認知能力が進化してきたことを検証します。そして、頭足類の高度に発達した知能が進化した過程、独自に獲得した中枢神経基盤の解明により、社会的知性仮説の再定義を目指します。

③A03 甲殻類他班(研究代表者:石原千晶) 「社会があれば知性はあるか:甲殻類・水圏無脊椎動物の社会と認知能力を捉え直す」

原始的な神経系しか持たない水圏無脊椎動物は、認知能力が低いと考えられてきました。しかし近年、水圏無脊椎動物においても、複雑な社会関係の報告例が相次いでいます。社会的知性仮説は、社会環境への適応が認知能力の進化を促したとする仮説です。この仮説に基づけば、水圏無脊椎動物においても複雑な社会関係の下では、まだ私たちの知らない高度な認知能力が進化している可能性が高いと考えられます。甲殻類他班では、甲殻類をはじめとする広範な水圏無脊椎動物について、その社会と認知能力をより詳細に調査し、水圏無脊椎動物の認知能力の再評価につなげます。特に甲殻類で、最も高度な個体識別である「真の個体識別」が確認できれば、甲殻類の認知能力も高等脊椎動物のそれに匹敵するほど発達していることを示すことができます。さらに甲殻類他班は、これまで高等脊椎動物を中心に研究されてきた社会的知性仮説について水圏無脊椎動物を用いて取り組むことで、分類群を超えた本仮説の一般性を検証するための礎となることが期待されます。

④A04 魚類認知班(研究代表者:高橋宏司) 「魚類の社会的知性の基盤と神経基盤の解明:生態との関連性から探る魚類の高次認知」

近年、魚類において今までに想定されていた以上に、様々な高次認知能力が発見されています。しかし、その報告例は哺乳類と比べて未だに少なく、神経基盤も解明されていません。魚類認知班は、これまでに魚類で報告のない認知機構を探索し、さらに神経基盤を解明することで哺乳類との相似・相同性を問い、脊椎動物における高次認知能力の起源に迫ることを目的とします。魚類認知班では、従来のモデル生物を対象とした学習実験から脱却し、対象生物の生態に沿った実験系を構築することで、魚類の自然な行動から今までないとされてきた高次認知能力の新規発見を目指します。ここでは、霊長類の社会性をその進化要因に据える想定を、個体で想定される動物間の相互作用まで拡大して再考します。つまり、より原始的な捕食・被食という関係に注目して、推移的推論や視線誘導・共同注意といった高次認知能力がみられるかを、魚類を用いて検証していきます。また、高次認知の一つである顔認知に注目して、行動学的研究で示されつつある知見と神経解剖学的な試みを融合させ、その神経基盤の解明も目指します。これにより、哺乳類と魚類の認知機構の相同性を確認できれば、認知能力の進化の起源に迫ることができると考えられます。行動・進化生態学、比較認知科学、脳神経科学が融合した「認知進化生態学」からの成果によって、魚類を超えて、従来の動物の認知能力に関する知見を大きく変革させることができると期待されます。

⑤A05 自己意識班(研究代表者:幸田正典) 「動物の自己意識とこころの検討:魚類、頭足類、甲殻類の鏡像自己認知研究から」

自分自身の存在を認識する自己意識は、これまでヒトや類人猿だけがもつ最高次の認知能力とされてきました。そんな中、近年のホンソメワケベラの鏡像自己認知(MSR)能力の発見は、魚類が自己意識を持つことや思考・理解することを示すことから、国内外の様々な研究分野に大きな衝撃をもたらしました。そこで自己意識班では、この高次の自己意識が他の魚類でも広く存在することを確認し、さらに詳細を明らかにすることで、脊椎動物における自己意識の起源に迫ります。次に、無脊椎動物でのMSRの検証実験に初めて取り組みます。頭足類や甲殻類にも高い認知能力が示唆されており、これらの動物でMSRが確認されれば、無脊椎動物でも自己意識をはじめとする高次認知能力を持つ可能性が高まります。MSR能力は脊椎動物とは独立に進化したのかもしれません。そうなると魚類の自己意識はヒトとの相同性の観点から、頭足類や甲殻類の自己意識は相似性の観点から迫ることが可能となります。これにより、従来の認知科学が検討してこなかった動物の自己主体性の取り組むこともできます。将来的には、動物の自己意識の研究から、ヒトの自己意識やこころについての新たな理解へと繋げます。